米沢市は武士道が脈々と継承されていた城下町です。有名な武将から歴史に埋もれた武士達が多く活躍した歴史的な武士の町です。旧米沢藩領(山形県置賜地方)に縁がある武士を要約してまとめています。米沢での古武道を実践する上で、米沢武士達の功績や生き方を参考にされてください。順次、追記していきます。
上杉謙信
戦国時代最強の武将 関東小大名のアニキ分
上杉謙信(1530年-1578年)は、戦国時代の越後国(現、新潟県)を治めた名将。米沢藩の祖。「軍神」と称されるほど戦略と武勇に優れた人物で、またの名を藤原輝虎、上杉輝虎、上杉政虎、長尾景虎とも言う。越後の龍の異名を持つ。特に関東管領・北条氏康や武田信玄との熾烈な争いで知られ、川中島の戦いでは信玄と幾度も激戦を繰り広げる。「第一義」に徹して、帝に仕え、弱者を助ける姿勢を持つ。また、深い大乗仏教信仰を持ち、毘沙門天を崇拝し、戦では自らをその化身とした。戦国武将の中でも特異な存在で、拡張よりも領民の保護や秩序の維持を重視し、越後の富国強兵を行なった。敵に塩を送る逸話を残しつつ、その生涯は日本史において不朽の存在感を放っている。現代での人気が高い戦国武将のひとり。戒名は不識院殿真光謙信。
祭神:上杉神社
現存する武具:姫鶴一文字、山鳥毛一文字、五虎退、謙信景光、烏帽子形白綾頭巾、赤地牡丹唐草文天鵞絨洋套、色々威腹巻、素懸白綾威黒皺韋包板物腹巻、朱皺漆紫糸素懸縅具足など
現存する仏具:泥足毘沙門天、刀八毘沙門天掛幅画、法華経など
上杉景勝
上杉謙信の義を継承した米沢藩初代藩主
上杉景勝(1556年-1623年)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将で米沢藩初代藩主。上杉謙信の異母姉・仙洞院の子で養子。謙信の死後、家督を巡って重臣の上杉景虎(北条氏康の七男)と争い(御館の乱)、勝利して上杉家の当主となる。豊臣政権の五大老の一人となり、領地を拡大し、上杉家を会津120万石の大大名とまで押し上げた。実直で寡黙な性格とされ、謙信の教えを守り「第一義」を重んじる文武両道の武士。関ヶ原の戦いでは、徳川家康に対抗する石田三成ら西軍に属し、最上・伊達軍と慶長出羽合戦を開戦する。三成敗北により家康に降伏、領地を会津120万石から米沢30万石に大減封された。大阪冬の陣では、徳川軍として豊臣軍を撃退する。特に、直江兼続との主従関係は有名で、米沢を城下町としての基盤を作り上げた。戒名は覚上院殿法印権大僧都宗心。
祭神:松岬神社
現存する武具:姫鶴一文字、浅葱糸威黒皺韋包板物二枚胴具足、鉄黒漆塗紺糸威異製最上胴具足、紫糸威伊予札五枚胴具足など
上杉鷹山(治憲)
米沢藩復興のために幼少期から英才教育を受けた
お家再興のスペシャリスト
上杉鷹山(1751年-1822年)は、江戸時代中期の米沢藩第9代藩主で米沢藩中興の祖。改革者として国際的に高い評価をされている名君。上杉治憲とも言う。9才で高鍋藩秋月家から養子として米沢藩に迎えられ、尾張国の細井平洲から教育を受けた。財政破綻寸前の米沢藩の藩政改革に尽力した。「倹約」と「勤勉」を柱に自身も質素な生活を実践し、藩士や農民に模範を示して藩の再建を成功させる。主に、農業振興、産業開発、人材育成を行っている。また、民衆の福祉を第一に考え、教育の普及や災害時の支援にも取り組む。功績として内政を多く取り上げられるが、武道にも熱心に励んだ文武両道の武士である。「為せば成る、為さねば成らぬ何事も」という有名な言葉を残し、日本史のみならず、現在でもビジネス界においてリーダーシップの模範として語り継がれている。戒名は元徳院殿聖翁文心大居士。
墓所:上杉家廟所
祭神:松岬神社
現存する武具:国宗、兼辰、勝色威二枚胴具足など
上杉治広
実父は反面教師
鷹山のなせばなるを継承した10代目
上杉治広(1764年-1822年)は、江戸時代中期から後期の米沢藩第10代藩主。米沢藩を幕府に返上しようとした米沢藩8代藩主・上杉重定の子として生まれる。9代藩主・上杉鷹山の養子となり、藩の再建において重要な役割を果たした。政治的手腕を持ちながら、退隠した鷹山を補佐し続け、藩政の安定化に寄与する。家督を継ぐ際に、鷹山より家督相続の訓戒「伝国の辞」を言い渡された。鷹山の意思を継いで藩民の相互扶助の体制を整え、黒井堰や飯豊山穴堰など藩士藩民をあげた大規模な用水路工事を行い、米沢藩の人口を拡大させた。また、名古屋藩徳川家に書状を出し、鷹山とその師・細井平洲の再会を実現させた立役者でもある。それにより鷹山の数々の逸話を後世に残し、鷹山を追うように卒去した。戒名は享徳院殿法印権大僧都恭心。
墓所:上杉家廟所
直江兼続
天下人・豊臣秀吉のヘッドハンティングを蹴る
筆頭五大老・徳川家康に喧嘩を売る
主君のために生き続けた愛と義の忠犬
直江兼続(1560年-1620年)は、戦国時代から江戸時代前期の武将。初代米沢藩主・上杉景勝の側近として忠義と知略で知られる米沢藩家老。幼名は樋口与六で、直江家を継ぎ兼続と名乗る。内政や外交で多大な功績を上げ、豊臣秀吉による天下統一後、上杉家の領地運営を支え、民政に優れた手腕を発揮する。「愛」の字が大きく描かれた前立て兜を着用したことで知られる。「義」を重んじ、戦では冷静沈着でありながらも剛胆で、対徳川軍を迎撃するための戦略を練り、直江状によって徳川家康を激怒させて関ヶ原の戦いの遠因となる会津征伐を引き起こした。関ヶ原の戦いでは石田三成率いる西軍につき、最上氏と伊達氏との慶長出羽合戦に出陣し敗戦。江戸時代初期には米沢藩を富国強兵しつつ、妻のお船と共に大規模な米沢城下を築き上げた。後に米沢藩を再興させる第九代米沢藩主・上杉鷹山は、直江兼続の国づくりを参考にした。戒名は達三全智居士、英貔院殿達三全智居士。
墓所:林泉寺
祭神:松岬神社
現存する武具:水神切兼光、錆地塗六十二間筋兜、金小札浅葱糸威二枚胴具足、浅葱糸威錆色塗切付札二枚胴具足など
直江船
夫・直江兼続とともに米沢藩の町を再構築した尼姫
直江船(1557年-1637年)は、直江宗家最後の当主。上杉謙信の重臣・直江景綱の娘で、戦国時代から江戸時代前期の上杉家家老・直江兼続の奥方。千とも言う。兼続とともに米沢城下を築き、高野山に自ら足を運んで僧侶を連れてくるなど、上杉家の信仰と武士団を束ねる働きをした。兼続死後、女性でありながら化粧料として三千石の高禄を与えられ、下級武士団手明組40名が仕えた。鎌倉幕府の尼将軍・北条政子とも類似性が重ねられる。戒名は宝林院殿月桂貞心大姉。
墓所:林泉寺、高野山清浄心院
伊達輝宗
死なばもろとも
息子・政宗のカリスマ性を育てた米沢城主
伊達輝宗(1544年-1585年)は、戦国時代に米沢を治めた武将。伊達氏16代当主。伊達政宗の父。妻は出羽国山形城主の最上義光の妹。伊達郡西山城から置賜郡米沢城に移り住む。元服時に室町幕府13代将軍・足利義輝より輝の字を賜って輝宗と名乗る。伊達家の勢力を大幅に拡大し、奥州における支配基盤を築く。優れた外交手腕で周辺勢力との和睦や同盟を積極的に行った。内政面では適材人材を起用し、政宗と若手の教育に力を注いで、次世代を見据えていた。政宗の圧力にあった二本松義継に拉致され、追手の鉄砲により殉死した。戒名は覚範寺殿性山受心大居士。
現存する武具:甲冑(青根温泉 湯元不忘閣 所有)
伊達政宗
東国に出現した独眼竜の帝王にしてカリスマ
政治宗教欧米外交のパイオニア
伊達政宗(1567年-1637年)は、出羽国(現、山形県)と陸奥国(現、宮城県・福島県)に勢力を拡大して治めた武将。伊達氏の第17代当主であり、仙台藩初代藩主。幼少期に天然痘により右目を失明し、独眼竜の異名を持つ。米沢で生まれ育ち、伊達家の英雄・政宗の名を継いで、父・輝宗や家臣団によって帝王学の英才教育を受けた。野心的で戦略家としての才能に優れ、16歳で初陣を飾り、わずか19歳で伊達家の家督を継いだ。隣接する諸勢力を次々と平定し、奥州の覇者となった。武勇だけでなく、文化や学問にも深い興味を持ち、俳句や茶道、さらに西洋文化を積極的に取り入れた。日本人で初めてローマ教皇へ使節団(慶長遣欧使節)を派遣した国際的な大名である。一方で、敵対者や反乱者に対しては冷酷で厳格な処罰を行った。そのカリスマ性と行動力から、現代でも特に人気の高い戦国武将のひとり。戒名は瑞巌寺殿貞山禅利大居士。
墓所:瑞鳳殿・昌傳庵・妙心寺塔頭蟠桃院
祭神:青葉神社
現存する武具:燭台切光忠、黒漆五枚胴具足
以下、追記・公開予定の武士の一覧です。
遠藤氏
遠藤基信(えんどうもとのぶ)
遠藤基信
遠藤基信(1532年-1585年)は、戦国時代の伊達家家臣。宿老。寺の子として生まれ、諸国を渡り歩き伊達家に仕える。若き片倉景綱の才能を見出して小姓にした。
遠藤孫左衛門(えんどうまござえもん)
遠藤孫左衛門
遠藤孫左衛門は、江戸時代中期の上杉家の医師格の役人。上杉鷹山時代に、医学に通じて薬剤、繭、生糸、からむしなど米沢藩産物を上方商人へ流通させる取引をしていた。日本地図を作成した伊能忠敬に宿を提供した。忠敬はここでこぐま座やりゅう座などの天測している。
片倉氏
片倉景綱(かたくらかげつな)
片倉景綱
片倉景綱(1557年-1615年)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。神官の子として生まれ、伊達政宗の近習から軍師となった。また名を片倉小十郎と言う。
片倉喜多(かたくらきた)
片倉喜多
片倉喜多(1538年-1610年)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての女武将。伊達政宗の乳母となる。伊達政宗の軍師・片倉景綱とは異父兄弟。またの名を喜多子と言う。
蒲生氏
蒲生氏郷(がもううじさと)
蒲生氏郷
蒲生氏郷(1556年-1595年)は、藤原秀郷の子孫とされ、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した文武両道の智将。教養人。天下人・豊臣秀吉を支えたひとり。秀吉による伊達家への奥州仕置きによって、伊勢から会津への加増移封(米沢も含む)される。キリシタン大名としても有名で、仏都会津の黒川を若松と地名を変えて、キリスト教を布教した。しかし、氏郷の死後、伴天連禁止令によって、会津若松のキリシタンは弾圧を受け続けた。戒名は昌林院殿高岩宗忠大居士。霊名はレオ。
墓所:大徳寺黄梅院、興徳寺など
現存する武具:会津新藤五、鉋切長光、会津正宗、國俊、黒漆塗燕尾形兜など
神保氏
神保綱忠(じんぼうつなただ)
神保綱忠
神保綱忠(1743年-1826年)は、江戸時代中期の米沢藩上杉家の家臣。五十騎組所属。阿宇一刀流剣術家・神保忠昭の子。上杉鷹山の師・細井平洲に入門し儒者となる。藩校興譲館の建設に尽力して、初代校長となる。
武田氏
武田信清(たけだのぶきよ)
武田信清
武田信清(1560年-1642年)は、安土桃山時代〜江戸時代の武将。上杉謙信の宿敵・武田信玄の六男。武田家が滅亡後、高野山に入り、上杉景勝の家臣となる。米沢藩高家衆筆頭。
竹俣氏
竹俣当綱(たけのまたまさつな)
竹俣当綱
竹俣当綱(1729年-1793年)は、米沢藩上杉家の上級家臣。莅戸善政らと共に上杉鷹山に仕え、藩政改革を行なった。
上泉氏
上泉泰綱(かみいずみ やすつな)
上泉泰綱
上泉泰綱(-1600年)は、米沢藩上杉家の家臣。新陰流の祖、剣豪・上泉信綱の孫。またの名を上泉主水と言う。
伊達氏
阿南姫(おなみひめ)
阿南姫
阿南姫(1541年-1602年)は戦国時代の女城主。伊達政宗の叔母。須賀川城主・二階堂盛義の妻となり、政宗と戦場で戦った。大乗院とも言う。
伊達晴宗(だてはるむね)
伊達晴宗
伊達晴宗(1519年-1578年)は、戦国時代に米沢を治めた武将。伊達氏15代当主。伊達政宗の祖父。
莅戸氏
莅戸善政(のぞきよしまさ)
莅戸善政
直江兼続(1735年-1804年)は、江戸時代中期の米沢藩上杉家の家臣。上杉鷹山に仕え、馬廻組から奉行まで出世した。
前田氏
前田慶次(まえだけいじ)
前田慶次(利益)
前田慶次(1543年-1612年)は、戦国時代から江戸時代前期の武将。前田加賀百万石の祖・前田利家は甥。上杉景勝に仕えた。またの名を、利貞、利卓、利太、利大、利興、宗兵衛、慶次郎、慶二郎、啓次郎、慶次
穀蔵院飄戸斎、穀蔵院忽之斎、龍砕軒不便斎と言う。