
小山 恒二
KOJI KOYAMA
昭和52年(1977)10月、米沢市生まれ。
米沢市花沢在住。
藤原鎌足の血を引く藤原秀郷流小山氏を祖先に持つ。
江戸時代中期に起きた赤穂浪士討ち入り事件(忠臣蔵)の影響で
江戸城から米沢藩に降った修験道に精通した武士の末裔。
家紋左三つ巴。
平成16年(2004)に合気道 堀越道場(春日部市)に入門。
平成19年(2007)に高校時代の恩師に紹介され、柴田道場・柴田孝一師範に出会う。
令和2年(2020)柴田道場・米沢支部入門。
古武道を2年半、ほぼマンツーマンで学ぶ。
戸籍と古文書から自身のルーツを調べ上げ
古武道をはじめるとともに家系の現地調査をはじめる。
現在、米沢藩の山岳信仰ならびに修験道を調査している。
好きな食べ物は、梅干しと納豆と味噌汁とパスタ。
米沢藩・小山道場 講師
HanaCinema株式会社 代表取締役
米沢商工会議所 議員
置賜民俗学会 会員



講師の先祖略歴表
大化の改新で知られる藤原鎌足より八世代後
朝廷より平将門の乱平定の命を受けて出兵した藤原秀郷の子孫
鎌倉幕府の坂東武者らを束ねた武士の生き残り
(※1)自害は切腹とは異なる。得度して修験道に入ったことを意味する。
時代 年代 出来事 飛鳥時代 皇極天皇4年(645) 中臣鎌足(藤原鎌足)が中大兄皇子ともに蘇我入鹿を討ち取る。 平安時代 天慶3年(940) 藤原秀郷が平将門を打ち取る。鎮守府将軍 贈正二位。 久安6年(1150)頃 藤原秀郷の直系子孫とされる太田政光(後の小山政光/小山氏の祖)が下野小山荘に移住する。 久寿2年(1155)頃 源頼朝の乳母で八田氏の娘・寒河尼が小山政光の後妻となる。 寿永2年(1183) 小山政光の子・小山朝政ら三兄弟(小山氏、長沼氏、結城氏)が源頼朝に加勢する。野木宮合戦に勝利して鎌倉勢力が磐石になる。 鎌倉時代 文治5年(1189) 小山朝政らが奥州合戦で藤原泰衡を捕らえる。奥州藤原氏が滅亡する。 貞応3年(1224) 小山朝政が鎌倉幕府の宿老と検非違使を務める。 南北朝時代 天授6年/康暦2年(1380) 鎌倉公方より小山氏討伐の命令が下る。小山義政の乱により、小山義政が粕尾の山中で自害(※1)する。 元中3年/至徳3年(1386) 小山義政の子・若犬丸(後の小山隆政)と小山氏旧臣が下野国 祇園城 を占拠し、小山若犬丸の乱が起きる。 室町時代 応永4年(1397) 小山若犬丸が鎌倉公方軍に追いつめられ、会津で自害(※1)したと縁故の長沼氏が鎌倉に伝える。若犬丸の遺児・宮犬丸と久犬丸が生きたまま武蔵六浦沖に沈められる(※2)。鎌倉の全寺院で一斉に経読みや写経がなされる。幕府から小山氏が滅亡し、縁故の結城氏が小山氏として跡目を継ぐ。 嘉吉3年(1443) 小山隆政が従者8人とともに蝦夷地へ渡る。藤原秀延(真言宗阿闍梨)によって真言宗上国寺草創。アイヌ民族との戦いで小山権現社(現、岩城神社)が建てられハンガンカムイと呼ばれる。蝦夷に左三つ巴紋が広がる。 長禄3年(1459)〜 小山一族が武田信広(後の松前氏の祖)と対立して江差町尾山に追放される。
約百年後、小山興重が松前氏の家臣になり、戦国時代が終焉を迎える。
松前氏が徳川幕府に臣従し、小山一族が幕府に戻る。江戸時代 元禄12年(1699) 徳川幕府江戸南町奉行・松前嘉広の孫・小山又左衛門良房が病死し、小山又左衛門幹喜が家督を継ぐ。
後年、同族の大石内蔵助率いる赤穂浪士が吉良邸討ち入りする(忠臣蔵)。元文5年(1740) 小山又左衛門平和実若が米沢藩中津川村(現、飯豊町)の御蔵役を勤める。 寛政10年(1798) 小山文左衛門文行が御守組に所属し、上杉鷹山公の代より上杉家守護役を勤める。
米沢藩花沢村信濃町(現、米沢市東)の大日堂横に移り住む。文政5年(1823) 小山三之助が家督を継ぎ、御守組番頭(十人頭)になる。米沢藩南原村(現、米沢市南原)に移り住む。 嘉永2年(1849)〜 小山三郎兵衛が家督を継ぎ、幕末の動乱を迎える。 明治時代 小山三郎兵衛の子・小山三之助が米沢藩山上村(現、米沢市関根ならびに三沢)の蔵王堂下に移り住む。
小山三之助の子・小山きさの夫・文蔵が日露戦争で戦死する。大正時代 小山きさが米沢市五十騎町(現、米沢市松が岬)に移り住み、織物業を営む。
米沢大火によって自宅を焼失し、米沢市御守町(現、米沢市城西)の桑島邸(桑島織物)に身を寄せる。
米沢市門東町の昌傳庵大日堂横に移り住む。昭和時代 小山きさの子・小山清が第二次世界世界大戦による徴兵、歩兵第三二連隊(総員約3,000名、沖縄戦残存約300名)に入隊する。
金属類回収令による強制譲渡命令によって織機・家財を失い、織物業を廃業。
戦後、花角氏らと草パン製造をするかたわら、米沢市中央2丁目の皇大神社裏の露店市で書店を営む。
(※2)得度させられ、修験道に入ったことを意味する。
真楊会・柴田道場と柴田孝一師範の紹介
日本の「道」を守り・開き・支え・伝える
古武道を身をもって体現する武術家
真楊会・柴田道場(埼玉県川越市)の柴田孝一師範は、米沢藩・小山道場の講師の先生で米沢市に古武道を復活させた方です。熊野居合道の村・山形県村山市林崎の生まれ。米沢市関根育ち。
幼い頃から空手を習い、日本道路公団にお勤め後、各地で高速道路の建設交渉に携わると同時に、東日本各地で古武術師範を師事して様々な流派を体得しました。
師範柴田孝一(月刊秘伝より) 米沢南陽道路(現、東北中央自動車道)の建設交渉ならびに初代所長としてもご尽力され、同時に米沢市営武道館で柴田道場米沢支部を立ち上げました。
九鬼神流棒術をはじめとする古武術を米沢に復活させました。
後進に指導する他、他流との交流を深めて演武会を主催するなど、消えつつある日本固有の古武道を次世代に伝承すべく活動を行っていました。まさに、日本国の道を支えた武道家でした。
令和5年(2023)10月には米沢支部を終了(※1)し、最後の門下生である小山恒二に米沢市営武道館での指導を引き継ぎました。令和6年(2024)4月に埼玉県川越市のご自宅で他界しました。享年79歳。
墓所は米沢市関根にある岩上山普門院(真言宗智山派)、戒名は武徳孝道居士。
(左)講師小山恒二(右)師範柴田孝一 (※1)米沢藩・小山道場では、柴田孝一師範を師事した真楊会・柴田道場の兄弟子の方々にご指導等をいただきながら交流を深めています。故・柴田孝一師範
真楊会・柴田道場 代表師範
天神真楊流柔術 第七代宗家
正木流万力鎖術 第十一代宗家
甲源一刀流剣術 宗家代理
日本古武道協会 理事 他古武道 真楊会・柴田道場
稽古場:川越市武道館柔道場
〒350-0053 埼玉県川越市郭町2-30/川越市立博物館裏手
稽古日:土曜日9:30〜(鎖術・棒術・剣術・柔術・体術)
木曜日18:30〜(鎖術・棒術・剣術・柔術・体術)
隔週日曜日9:30〜(鎖術・棒術・剣術・柔術・体術)
<上野貴先生25周年追悼演武大会> 平成13年(2001)12月
<上野貴先生25周年追悼演武大会> 平成13年(2001)12月